2026年10月7日、スウェーデン・ストックホルムのノーベル委員会は、生命の非対称性の化学的謎を解明した功績により、フランスのアンリ・カガン氏と日本の小磯克彦氏に今年のノーベル化学賞を授与すると発表した。受賞者には1200万スウェーデン・クローナが贈られる。
カガンの触媒増幅と小磯の画期的な自己触媒実験
化学の歴史において、最初の理論的道筋を示したのは1953年、英国・ブリストル大学の理論物理学者チャールズ・フランックだった。フランックは、化学反応が自らの手でキラルな触媒を作り出すことができれば、自己増幅的な効果によって一方が圧倒的に優勢になると提唱した。その後、2001年のノーベル化学賞受賞者であるウィリアム・ノールズ、野依良治、バリー・シャープレスらがキラル触媒を用いた不斉合成の道を開いたが、カガンと小磯の両氏はさらにその先へ進んだ。

1980年代、カガンは反応を設計して一方の分子構造を優先的に生成する可能性を示し、触媒のわずかな不斉の偏りが反応産物の中で大幅に増幅される現象を発見した。そして1995年、小磯克彦氏はその概念を実証する歴史的な実験を成功させた。小磯氏が用いた5-ピリミジルアルカノールなどの物質は、それ自体が触媒として働きながら自分自身を複製する「自己触媒反応」を引き起こす。
「これは有機化学の中で間違いなく最もクールな実験だ。」
ピーター・ソンファイ、ノーベル化学委員会委員
小磯氏の実験では、出発物質の段階でわずか2パーセントという微小な左右の偏り(過剰率)しかなかった状態から、反応の終結時には87パーセントという圧倒的な過剰率へと偏りが増幅されることが示された。オックスフォード大学の合成化学者スティーヴン・フレッチャー氏が、小磯氏が不均衡を増幅させるチューニングにおいて驚異的な成果を挙げたと評するように、この研究は化学の教科書を書き換えるブレイクスルーとなった。
医薬品開発と現代医療を根底から変えた技術的影響
キラリティの重要性が世界に悲劇的な形で知らしめされた代表例が、1950年代に妊婦のつわり治療薬として処方されたサリドマイドである。サリドマイドはキラル分子であり、右手型は有効な治療薬である一方、左手型は強い毒性を持っていた。投与された薬剤には両方の鏡像異性体が混ざっており、さらに生体内でも双方が変換される性質を持っていたため、多くの子供たちが重い障害を持って生まれる原因となった。
| 受賞者 | 主な所属機関 | 貢献の概要 |
|---|---|---|
| アンリ・B・カガン | オルセー大学(パリ第11大学) | 触媒におけるわずかな不斉の偏りが増幅される現象を初期の実験で発見 |
| 小磯克彦 | 東京理科大学 | 自己触媒反応を用いた高効率な不斉増幅(小磯反応)を確立 |
こうした背景から、医薬品開発において目的とする特定の鏡像異性体のみを選択的に合成する技術の確立は、医療の安全性と有効性を担保する上で極めて重要な課題であった。ノーベル化学委員会のピーター・ソンファイ氏は、特定の薬剤名に限定するのではなく、触媒の機能や設計方法を理解するための普遍的なツールとして、すべての近代医薬品の開発にこの化学が活用されていると指摘している。
受賞決定の知らせとこれからの日程
受賞決定の報せは、思わぬ場所で当事者に届いた。ノーベル委員会からの電話を受けた際、小磯克彦氏は自宅の近所で買い物をしている最中だったという。
「ノーベル賞についての非常に素晴らしい知らせを受け取ることができ、大変興奮しています。これは私の人生において最もエキサイティングな一日のひとつです。」
小磯克彦、受賞者