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総谷トンネルで近鉄特急が正面衝突し25人死亡、時速144kmで暴走

1971年10月25日、三重県白山町の総谷トンネルで近鉄特急2本が正面衝突し、乗客や乗務員ら25人が死亡した。Yahoo!ニュースなどの報道によると、事故の十数分前までトンネル内に停車していた名古屋行き特急が、ブレーキの効かない状態で坂を下って時速約144kmで暴走したことが引き金となった。 ATSの誤作動と止まらない列車 事故当日の午後2時47分ごろ、東青山駅で自動列車停止装置(ATS)が誤作動を起こし、停止信号を出し続けた。弁護士JPニュースの報道によれば、この日だけで少なくとも5本の列車が同駅付近で異常停車した。大阪上本町を午後2時30分に出発した名古屋行き特急114列車は、青山トンネルの出口付近でATSにより急停止させられた。前方の信号は青だったが、運転士が非常ブレーキを緩めようとしても、なぜかこの列車だけはブレーキが効かなかった。近鉄の規程では、原因不明の場合は運転をあきらめ救援を要請することになっていたが、現場の混乱と情報伝達の不足が重なった。 車輪止めの誤解と暴走の始まり 運転士は点検のため車外に出向き、3号車の車輪2か所に車輪止めをかませて空気漏れを探した。しかし異常は見つからなかった。弁護士JPニュースの調査によると、現場の助役は車輪止めの存在に気づき、運転士の外し忘れと思い込んで確認せずに外してしまった。その後、運転室に戻った運転士がブレーキハンドルを操作したところ、ブレーキが緩んで列車は急勾配の下り坂を走り始めた。午後3時54分ごろのことである。当時の近鉄列車には指令所と直接話せる無線がまだ導入されておらず、暴走する列車から外部へ緊急事態を伝える手段はなかった。 時速144kmでの正面衝突と被害の拡大 坂を下った列車は時速約144kmに達し、三重賢島発の難波・京都行き特急と総谷トンネル内で正面衝突した。. 裁判所が下した判断と事故の記録 この事故をめぐっては、名古屋行き特急の運転士が業務上過失致死傷などの罪に問われ、1975年に津地裁で禁錮10月、執行猶予2年の有罪判決が確定した。裁判では運転士と助役の過失が重なったと認定された。一方で、当時は運輸安全委員会のような常設の第三者機関がなく、運輸省、警察、近鉄が個別に調査を行ったため、記録には不確かな点も残された。乗務員のうち助役は死亡し、生還した運転士の詳しい心理状態を示す資料は限られている。 相次ぐ教訓から生まれた鉄道の安全対策 実はこの事故の7か月前である1971年3月にも、山梨県の富士急行でブレーキを失った列車が約4km逸走して脱線し、86名の死傷者が出る事故が起きていた相次ぐ暴走事故を受け、運輸省は1972年にブレーキ装置の改善通達を出し、常用ブレーキとは完全に独立した予備の保安ブレーキの設置を求めた。近鉄でも事故直後からATSとブレーキの総点検が始まり、1975年11月には新青山トンネルを通る複線の新線へ切り替わり、事故現場となった単線の旧線とトンネルは廃止された。 写真:弁護士JP 総谷トンネル

弁護士JPニュース

1971年10月25日、三重県白山町の総谷トンネルで近鉄特急2本が正面衝突し、乗客や乗務員ら25人が死亡した。Yahoo!ニュースなどの報道によると、事故の十数分前までトンネル内に停車していた名古屋行き特急が、ブレーキの効かない状態で坂を下って時速約144kmで暴走したことが引き金となった。

ATSの誤作動と止まらない列車

事故当日の午後2時47分ごろ、東青山駅で自動列車停止装置(ATS)が誤作動を起こし、停止信号を出し続けた。弁護士JPニュースの報道によれば、この日だけで少なくとも5本の列車が同駅付近で異常停車した。大阪上本町を午後2時30分に出発した名古屋行き特急114列車は、青山トンネルの出口付近でATSにより急停止させられた。前方の信号は青だったが、運転士が非常ブレーキを緩めようとしても、なぜかこの列車だけはブレーキが効かなかった。近鉄の規程では、原因不明の場合は運転をあきらめ救援を要請することになっていたが、現場の混乱と情報伝達の不足が重なった。

車輪止めの誤解と暴走の始まり

運転士は点検のため車外に出向き、3号車の車輪2か所に車輪止めをかませて空気漏れを探した。しかし異常は見つからなかった。弁護士JPニュースの調査によると、現場の助役は車輪止めの存在に気づき、運転士の外し忘れと思い込んで確認せずに外してしまった。その後、運転室に戻った運転士がブレーキハンドルを操作したところ、ブレーキが緩んで列車は急勾配の下り坂を走り始めた。午後3時54分ごろのことである。当時の近鉄列車には指令所と直接話せる無線がまだ導入されておらず、暴走する列車から外部へ緊急事態を伝える手段はなかった。

時速144kmでの正面衝突と被害の拡大

坂を下った列車は時速約144kmに達し、三重賢島発の難波・京都行き特急と総谷トンネル内で正面衝突した。.

裁判所が下した判断と事故の記録

この事故をめぐっては、名古屋行き特急の運転士が業務上過失致死傷などの罪に問われ、1975年に津地裁で禁錮10月、執行猶予2年の有罪判決が確定した。裁判では運転士と助役の過失が重なったと認定された。一方で、当時は運輸安全委員会のような常設の第三者機関がなく、運輸省、警察、近鉄が個別に調査を行ったため、記録には不確かな点も残された。乗務員のうち助役は死亡し、生還した運転士の詳しい心理状態を示す資料は限られている。

相次ぐ教訓から生まれた鉄道の安全対策

実はこの事故の7か月前である1971年3月にも、山梨県の富士急行でブレーキを失った列車が約4km逸走して脱線し、86名の死傷者が出る事故が起きていた相次ぐ暴走事故を受け、運輸省は1972年にブレーキ装置の改善通達を出し、常用ブレーキとは完全に独立した予備の保安ブレーキの設置を求めた。近鉄でも事故直後からATSとブレーキの総点検が始まり、1975年11月には新青山トンネルを通る複線の新線へ切り替わり、事故現場となった単線の旧線とトンネルは廃止された。

総谷トンネルで近鉄特急が正面衝突し25人死亡、時速144kmで暴走
写真:弁護士JP
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