1942年3月末、国家保安本部が組織した最初の大量移送者の一団がアウシュヴィッツ=ビルケナウに到着した。スロヴァキアやフランスから連行されたユダヤ人の到着を皮切りに、同収容所はヨーロッパ各地からの大量虐殺の拠点へと変貌していった。歴史学者シビレ・シュタインバッハーの著書『アウシュヴィッツの歴史』をもとに、Yahoo!ニュースおよびクーリエ・ジャポンが報じたその実態をたどる。
1942年3月の初期移送と組織的殺害の開始
1942年3月25日から26日の夜にかけて、スロヴァキアから1000人のユダヤ女性がアウシュヴィッツ=ビルケナウに到着したと、Yahoo!ニュースおよびクーリエ・ジャポンの報道は伝えている。その2日後には約800人のユダヤ女性が続き、3月30日にはフランスの抑留収容所から様々な国籍の1100人を超えるユダヤ系の男女が送り込まれた。国家保安本部によって労働適性が明確に認められた人々はすぐには殺害されず、登録されて収容所に入れられたが、組織的な殺害そのものは1942年5月に始まった。犠牲者はオーバーシュレージエン、スロヴァキア、フランス、ベルギー、オランダから連行された人々であり、1942年7月以降はこの選別と殺害が常態化した。

西ヨーロッパからの移送とヒムラーによる視察の目的
1942年夏以降、西ヨーロッパからの大量移送先がアウシュヴィッツ=ビルケナウになった背景には、ドイツ国防軍による春季攻勢後の輸送遮断があったとされる。マイダネクや「ラインハルト作戦」の収容所へのアクセスが妨げられた結果、同収容所は代替施設として機能し、殺害技術の向上とともに犠牲者数が増大した。1942年7月17日と18日には、親衛隊トップのハインリヒ・ヒムラーが収容所を2日間視察した。農業施設の確認や建設計画の承認のほか、訪問の主目的は大量虐殺のデモンストレーションにあった。ヒムラーはオランダからの移送者を使用し、選別から「ブンカーⅡ」のガス室での殺害、特別労務班の投入に至る絶滅の全過程を実演させた。
収容所の役割変化と末期の大量虐殺のピーク
親衛隊トップの視察後、ヒムラーは中継収容所を除き、年末までにポーランド総督府内をユダヤ人がいない状態にすると決定した。アウシュヴィッツではヨーロッパ各地からの移送数が急増し、それまで少数だったユダヤ人が収容者全体の最大グループを占めるようになった。移送された人々は番号の付与すらされず、選別直後に殺害されるようになったと伝えられている。さらに、クーリエ・ジャポンの報道によれば、1944年の夏には大量虐殺が最後のピークを迎えた。5月15日から7月9日の間に合計43万人ほどのハンガリー系ユダヤ人が到着し、その約20%だけが収容され、残りは直ちに殺害された。この作戦は国家保安本部のアドルフ・アイヒマンが指揮を執り、ルドルフ・ヘスが特別任務を完遂して再びベルリンへ戻るという経過をたどった。
プロパガンダ収容所の解体と終焉に向かう移送
1944年の夏から秋にかけても、困難な状況のなかでギリシャの島々やウーチ・ゲットー、スロヴァキアなどからの移送が継続された。クーリエ・ジャポンの伝えるところによれば、ビルケナウの「家族収容所」やテレージエンシュタット・ゲットーは政権のプロパガンダに利用され、世界中に流布した虐殺情報を否定する道具とされた。しかし、特別待遇は約半年で終わりを告げ、1944年3月と7月の2回に分けて収容者の大半が殺害された。そして1944年10月30日、テレージエンシュタットから約2000人を乗せた列車が到着したのが、大量移送の最後であり、おそらく選別が行われた最後の移送記録となった。ヨーロッパ全土を巻き込んだこの巨大な絶滅システムが、歴史のなかでどのように機能し終息していったのか、その実態の全容解明は現在も続けられている。