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「1995年の「人間の鎖」事件の被害者1384人」

1995年7月24日、薬害エイズ事件の被害者と支援者ら約3500人が厚生省前で「人間の鎖」を作り、国と製薬会社に謝罪を求めた。血友病患者ら1400人以上がHIVに感染したこの事件は、若者たちの抗議行動が社会を動かす大きなうねりとなった。その後、和解成立から約30年が経過した今も、被害者らは生き抜くための闘いを続けている。 「人間の鎖」で国に謝罪を求めた1995年の夏 1995年7月24日、東京・霞が関の気温は35度に迫る猛暑だった。厚生省(当時)を取り囲んだのは、薬害エイズ事件の被害者とその支援者たちだ。HIVが混入した血液製剤による被害をめぐり、国と製薬会社に責任を認め謝罪するよう求めた。参加者は徐々に増え、最終的に3500人が手をつないだ。この抗議活動は、被害者らが抱える死の恐怖と差別に対する社会の注目を一気に集めることとなった。当時19歳だった被害者の後藤正善さんは、支援者の輪の中で「一人じゃない。一緒に闘う」という言葉をかけられ、生きる希望を見出したと振り返っている。 差別と死の恐怖にさらされた少年時代 後藤さんは生まれて間もなく血友病と診断され、血液製剤の投与が欠かせない生活を送っていた。しかし、米国由来の製剤にはHIVが混入しており、小学1年生の頃に感染していたことが後に判明する。当時、HIVは「死の病」と呼ばれ、社会には根深い差別と偏見が渦巻いていた。学校では同級生から「ばい菌」と呼ばれ、水をかけられるなどの暴力にも耐えた。かかりつけの医師に診療を拒まれる経験もした。13歳の時に被害者や遺族が起こした訴訟では、多くの原告と同様、匿名で「原告番号14番」として闘うしかなかった。 実名公表と若者による抗議の広がり 1995年3月、原告の一人である川田龍平さんが実名を公表したことが転機となった。社会の関心が高まる中、坂本龍一さんや黒柳徹子さんら著名人も支援に名を連ねた。後藤さんも実名での闘いを考えたが、実家の飲食店で客から「エイズだ。うつるぞ」と罵声を浴びせられ、客足が遠のいた経験から断念した。それでも、カーテンの陰に隠れて抗議集会に参加するなど、何かをせずにはいられなかった。同年10月には、ラップを歌いながら渋谷を行進するなど、若者世代が主導するダイナミックな支援の輪が広がっていった。 和解成立から治療法の飛躍的な進歩へ 1996年2月16日、厚生省前での座り込みを経て、当時の菅直人厚相が被害者・遺族に謝罪した。同年3月29日、東京・大阪の両地裁で和解が成立し、国と製薬会社は責任を認めた。この頃、薬剤を組み合わせる多剤併用療法が登場し、エイズは「死の病」ではなくなった。1997年には国立国際医療センター内に「エイズ治療・研究開発センター(ACC)」が開設された。主治医を務めた田沼順子教授は、和解条項に基づいた政府の動きにより海外の治療法が早期導入され、多くの命が救われたと指摘する。 終わらない闘いと被害者の現在 和解後、後藤さんは自身の感染を隠さず、社会の一員として働き始めた。しかし、現在も障害や偏見と向き合う生活は続いている。昨年10月、長年活動を共にした仲間が亡くなったことを受け、後藤さんは「薬害エイズは終わっていない」と再認識した。今年4月には、被害者支援を行う「はばたき福祉事業団」のスタッフとして復帰した。今、訴訟の原告だった1384人中、存命なのは621人。763人もの命が失われた今、後藤さんは「逝ってしまった仲間の分も生きて語らなければ」と語る。 就労支援や福祉の現場では、今なお偏見により仕事と通院の両立に苦しむ被害者が少なくない。後藤さんは自身の体調とも向き合いながら、理不尽な苦しみの中で亡くなっていく仲間を二度と出さないよう、被害者の未来のために声を上げ続ける決意だ。

「1995年の「人間の鎖」事件の被害者1384人」

1995年7月24日、薬害エイズ事件の被害者と支援者ら約3500人が厚生省前で「人間の鎖」を作り、国と製薬会社に謝罪を求めた。血友病患者ら1400人以上がHIVに感染したこの事件は、若者たちの抗議行動が社会を動かす大きなうねりとなった。その後、和解成立から約30年が経過した今も、被害者らは生き抜くための闘いを続けている。

「人間の鎖」で国に謝罪を求めた1995年の夏

1995年7月24日、東京・霞が関の気温は35度に迫る猛暑だった。厚生省(当時)を取り囲んだのは、薬害エイズ事件の被害者とその支援者たちだ。HIVが混入した血液製剤による被害をめぐり、国と製薬会社に責任を認め謝罪するよう求めた。参加者は徐々に増え、最終的に3500人が手をつないだ。この抗議活動は、被害者らが抱える死の恐怖と差別に対する社会の注目を一気に集めることとなった。当時19歳だった被害者の後藤正善さんは、支援者の輪の中で「一人じゃない。一緒に闘う」という言葉をかけられ、生きる希望を見出したと振り返っている。

差別と死の恐怖にさらされた少年時代

後藤さんは生まれて間もなく血友病と診断され、血液製剤の投与が欠かせない生活を送っていた。しかし、米国由来の製剤にはHIVが混入しており、小学1年生の頃に感染していたことが後に判明する。当時、HIVは「死の病」と呼ばれ、社会には根深い差別と偏見が渦巻いていた。学校では同級生から「ばい菌」と呼ばれ、水をかけられるなどの暴力にも耐えた。かかりつけの医師に診療を拒まれる経験もした。13歳の時に被害者や遺族が起こした訴訟では、多くの原告と同様、匿名で「原告番号14番」として闘うしかなかった。

実名公表と若者による抗議の広がり

1995年3月、原告の一人である川田龍平さんが実名を公表したことが転機となった。社会の関心が高まる中、坂本龍一さんや黒柳徹子さんら著名人も支援に名を連ねた。後藤さんも実名での闘いを考えたが、実家の飲食店で客から「エイズだ。うつるぞ」と罵声を浴びせられ、客足が遠のいた経験から断念した。それでも、カーテンの陰に隠れて抗議集会に参加するなど、何かをせずにはいられなかった。同年10月には、ラップを歌いながら渋谷を行進するなど、若者世代が主導するダイナミックな支援の輪が広がっていった。

和解成立から治療法の飛躍的な進歩へ

1996年2月16日、厚生省前での座り込みを経て、当時の菅直人厚相が被害者・遺族に謝罪した。同年3月29日、東京・大阪の両地裁で和解が成立し、国と製薬会社は責任を認めた。この頃、薬剤を組み合わせる多剤併用療法が登場し、エイズは「死の病」ではなくなった。1997年には国立国際医療センター内に「エイズ治療・研究開発センター(ACC)」が開設された。主治医を務めた田沼順子教授は、和解条項に基づいた政府の動きにより海外の治療法が早期導入され、多くの命が救われたと指摘する。

終わらない闘いと被害者の現在

和解後、後藤さんは自身の感染を隠さず、社会の一員として働き始めた。しかし、現在も障害や偏見と向き合う生活は続いている。昨年10月、長年活動を共にした仲間が亡くなったことを受け、後藤さんは「薬害エイズは終わっていない」と再認識した。今年4月には、被害者支援を行う「はばたき福祉事業団」のスタッフとして復帰した。今、訴訟の原告だった1384人中、存命なのは621人。763人もの命が失われた今、後藤さんは「逝ってしまった仲間の分も生きて語らなければ」と語る。

就労支援や福祉の現場では、今なお偏見により仕事と通院の両立に苦しむ被害者が少なくない。後藤さんは自身の体調とも向き合いながら、理不尽な苦しみの中で亡くなっていく仲間を二度と出さないよう、被害者の未来のために声を上げ続ける決意だ。

執筆者について: nipponese

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