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【豊臣秀吉の弱点】実は鎌倉以来の最弱政権?「領地分散」が招いた家康との兵力差(WEB歴史街道) – Yahoo!ニュース

豊臣政権は絢爛豪華な文化の裏で脆弱な財政・軍事基盤を抱えており、直轄領の少なさや全国への分散が統治上の重大な弱点となっていたと、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』やPHPオンラインの報道が伝えている。天下人となった豊臣秀吉の権力は、実は徳川家康を下回る条件の上にあった。 武家社会の構造的欠陥と主君のジレンマ 武家社会は、主君が家臣に土地を与えることで成立している。しかし土地には限りがあるため、主君が家臣に土地をたびたび与えていると自分の領地が減ってしまう。鎌倉幕府や室町幕府の財政基盤が弱かったのも、この構造的な問題があったからだと同書は指摘する。織田信長は、このジレンマを解消するために武家社会そのものを変えようとしたが、明智光秀に討たれてしまった。秀吉にとって、この問題は信長以上に深刻な課題であった。 裸一貫からのし上がった秀吉特有の事情 本能寺の変後、秀吉は毛利と和睦を結んで近畿へと急行し、山崎の合戦で光秀を討って天下獲りレースの最右翼に躍り出た。しかしこの時、秀吉が率いた軍勢の大部分は信長の家臣であり、与力として一時的に指揮下に置かれていただけである。秀吉の直属の家臣はごく少数であり、他の家臣たちから見れば同僚に過ぎなかった。大名や豪族の家に生まれたわけではない秀吉は、仲間を上手に使って勢力を拡大するしかなかった。 Photo: topics.smt.docomo.ne.jp 過度な褒美の大盤振る舞いと領地の譲渡 自分自身のバックボーンがなかった秀吉は、上司、同僚、部下を利用して這い上がったため、仲間の使い方が巧妙だった。しかし、そのためには仲間に対し、過度な褒美を与え続けなくてはならなかった。秀吉はかつての同僚たちに大盤振る舞いすることで臣下の礼を取らせた。版図を広げるたびに、拡大した領土の大半を部下であるかつての同僚たちに与えたため、結果として自身の直轄領を大きくすることができなかった。 直轄領の分散がもたらした軍事上のハンディ PHPオンラインの報道によると、秀吉の直轄領は222万石あり、数値の上では10万人以上の兵を動員できるはずだった。しかし、その領地は一か所にまとまることはなく、全国各地に点在していた。秀吉が死んだ慶長3年時点で、豊臣家の直轄領は全国に40ほどあったが、その中で10万石以上の領地は11か所しかなかった。しかもそれらは一つの国の直轄領を合わせての数値であり、1万石以下の小領地が14か所もあった。 家康との兵力差と豊臣政権の命運 小さい領地のほとんどには代官も置かれず、隣接する大名が管理して年貢米だけを納入していたため、そこから兵を動員することは事実上不可能であった。豊臣家の真の直轄軍と言えるのは、関西地域にまとまる60から70万石の武士団、せいぜい多くても5万人程度のものであった。一方、徳川家康の版図は250万石であり、領地は一つに固まっており、10万人以上を優に動員できる。豊臣恩顧の大名が結束していれば家康を凌駕できるが、その結束が崩れて直接対決となれば、兵力で大きく劣るという弱点を残したまま秀吉は死去した。 豊臣政権が抱えたこれらの構造的弱点は、のちの天下分け目の動向においてどのような影響を及ぼしていくのか。家康との間に生じた実質的な兵力差と統治の限界は、歴史の転換点における大きな焦点となり続ける。

【豊臣秀吉の弱点】実は鎌倉以来の最弱政権?「領地分散」が招いた家康との兵力差(WEB歴史街道) – Yahoo!ニュース

豊臣政権は絢爛豪華な文化の裏で脆弱な財政・軍事基盤を抱えており、直轄領の少なさや全国への分散が統治上の重大な弱点となっていたと、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』やPHPオンラインの報道が伝えている。天下人となった豊臣秀吉の権力は、実は徳川家康を下回る条件の上にあった。

武家社会の構造的欠陥と主君のジレンマ

武家社会は、主君が家臣に土地を与えることで成立している。しかし土地には限りがあるため、主君が家臣に土地をたびたび与えていると自分の領地が減ってしまう。鎌倉幕府や室町幕府の財政基盤が弱かったのも、この構造的な問題があったからだと同書は指摘する。織田信長は、このジレンマを解消するために武家社会そのものを変えようとしたが、明智光秀に討たれてしまった。秀吉にとって、この問題は信長以上に深刻な課題であった。

裸一貫からのし上がった秀吉特有の事情

本能寺の変後、秀吉は毛利と和睦を結んで近畿へと急行し、山崎の合戦で光秀を討って天下獲りレースの最右翼に躍り出た。しかしこの時、秀吉が率いた軍勢の大部分は信長の家臣であり、与力として一時的に指揮下に置かれていただけである。秀吉の直属の家臣はごく少数であり、他の家臣たちから見れば同僚に過ぎなかった。大名や豪族の家に生まれたわけではない秀吉は、仲間を上手に使って勢力を拡大するしかなかった。

【豊臣秀吉の弱点】実は鎌倉以来の最弱政権?「領地分散」が招いた家康との兵力差(WEB歴史街道) - Yahoo!ニュース
Photo: topics.smt.docomo.ne.jp

過度な褒美の大盤振る舞いと領地の譲渡

自分自身のバックボーンがなかった秀吉は、上司、同僚、部下を利用して這い上がったため、仲間の使い方が巧妙だった。しかし、そのためには仲間に対し、過度な褒美を与え続けなくてはならなかった。秀吉はかつての同僚たちに大盤振る舞いすることで臣下の礼を取らせた。版図を広げるたびに、拡大した領土の大半を部下であるかつての同僚たちに与えたため、結果として自身の直轄領を大きくすることができなかった。

直轄領の分散がもたらした軍事上のハンディ

PHPオンラインの報道によると、秀吉の直轄領は222万石あり、数値の上では10万人以上の兵を動員できるはずだった。しかし、その領地は一か所にまとまることはなく、全国各地に点在していた。秀吉が死んだ慶長3年時点で、豊臣家の直轄領は全国に40ほどあったが、その中で10万石以上の領地は11か所しかなかった。しかもそれらは一つの国の直轄領を合わせての数値であり、1万石以下の小領地が14か所もあった。

家康との兵力差と豊臣政権の命運

小さい領地のほとんどには代官も置かれず、隣接する大名が管理して年貢米だけを納入していたため、そこから兵を動員することは事実上不可能であった。豊臣家の真の直轄軍と言えるのは、関西地域にまとまる60から70万石の武士団、せいぜい多くても5万人程度のものであった。一方、徳川家康の版図は250万石であり、領地は一つに固まっており、10万人以上を優に動員できる。豊臣恩顧の大名が結束していれば家康を凌駕できるが、その結束が崩れて直接対決となれば、兵力で大きく劣るという弱点を残したまま秀吉は死去した。

豊臣政権が抱えたこれらの構造的弱点は、のちの天下分け目の動向においてどのような影響を及ぼしていくのか。家康との間に生じた実質的な兵力差と統治の限界は、歴史の転換点における大きな焦点となり続ける。

執筆者について: nipponese

Nipponese News編集部は、国内外のニュースを日本語で分かりやすくお届けします。